こども銀行えんそうば
定期入れから60円が出てきました。
駐輪場代のおつりが残っていたものと思われます。
おつりはたしか760円でしたが、500円玉は貯金箱に予め消えてました(ちょっと前に書きました)。
ちなみに10円玉はギザ10じゃなかったです(これも昨日書きましたね。お金のこと多い)
・・・あれ、200円どこだ。使ったっけ。
(そのうち出てくるでしょう)
して、残った60円を見て、ちっちゃい頃通ってた駄菓子屋さんを思い出しました。
お小遣いもままならない小学生時代に、道で50円玉を拾ったときのことです。
交番に届けるには些細なことすぎておまわりさんに大変な手間となってしまうと思い(もとい、迅速にポケットに突っ込みながら)、頂いてしまいました。
空腹の午後16時ということもあって駄菓子屋さんに直行したちりちり少年は、何を買うかで地味に迷っていました。
選択肢としては、
・うまい棒(10円)
・ベビースター(30円)
・ちっちゃいボトルのラムネ(30円)
くらいがいつものオーダーでしたが、50円だと微妙な組み合わせです。
フルで使うにはうまい棒は必須ですが、せっかくなら30円のものを2つ揃えたい・・・。
結局ベビースターを一個買って、残りはその後の人生のためにとっておくことにしました。
このころは節約してあとあと使おうっていうのが自然にできたんですが、今は何故だか気を使わないとできなくなってしまいました。
額は違うけど、この差はけっこう大きいです。
お金も、持ちすぎると感覚狂ってついつい使ってしまいがちです。
初心忘れるなみたいなことわざは、謙虚でいろってことなのかもしれませんね。
社会人になって、「お金持ってる」と錯覚してたところがあったのかもしれません。
そういう人は、たまに駄菓子屋さんに行ってみるのもいいと思います。
まぁ、私もなんですが。
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子供のころは、
貯金箱なんてすぐいっぱいになった。
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時代のギザギザ
おつりでギザ10が転がってきました。
昔から集めていますが、最近はキャッシュレスの流れもあって久しぶりです。
たまったギザ10は実家の貯金箱に貯めていて、今の家に来てからは財布に貯めこんでいます。今財布の中には3枚で、これが4枚目。だんだん重くなってきた。
何年製のが珍しいとかもあるようですが、ギザ10自体が珍しいので選ばないで集めています。
令和になって最初の硬貨(年号が「令和」)なんかも出ているようですが、まだお目にかかってません。早く見てみたいな。
年号変わったって実感するのって、案外そういう変なところだったりして。
私の中では、平成は全くと言っていいほど抜けていません。
なにか変わったかって、直感的にはあまり変わってない。
でっかいことが変わったときには、その場でさっぱり実感できることとじわじわ来るものがありますよね。
その出来事の自分からの距離感にもよりますが、年号みたいに大きいこと過ぎて自分から遠いようなものは、なかなかな時間差でやってきます。
そういうのは大体元に戻るようなことはないので、哀愁というか、惜別の時間みたいなものがあるのかもしれません。
なんだかわかりませんが、その短い時間が、不思議とまぶしく見えませんか。
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良くも悪くも、時代について認識不足。
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秋が、幾度目か。
先日は台風の影響でえらい量が降りましたが、それを境に一気に秋がやってきました。
先週末は台風なのもあって暖かかったですが、昨日今日とパラパラと降った雨はもうすっかり秋の装いです。
今日も帰り際にパラパラ降ってきたのでこんぐらいならって思って傘も差さなかったら、家に着く頃にはもう寒いくらい。
風邪引くなぁって、思いましたね(引いてます)。
夏みたいな感覚でいちゃもういけんということです。ややさびしきか。
そんなこと言ってたらこれから日毎にだんだん起きれなくなって、突き刺すような寒さに息を白くする時期がやってきます。本当に早いものです。
最近時間の流れが本当に早く感じるので、ある程度年とったのかなって、勝手に思ってます。
「人生の四季」って話を聞いたことがあったような気がしたんですが、調べてもしっくりくる内容が見当たりませんでした。
たしか、それぞれの季節で人生をスタートして、一年過ごして生まれた季節になる前にこの世を去る、みたいな話だったと思いますが、なんとなくしか覚えてないな・・・。
夏生まれなら秋が兄姉で、冬が父母、春が祖父母みたいな感じだったような。なんだかずいぶん華やかなおじいちゃんおばあちゃんですね。エンディングが壮絶そう。
今のところ四季を繰り返せる私たちは、昨季やり残したことをできるチャンスがあります。
紅葉に自転車、読書に食べ物、秋って詰め込みすぎですが、いろいろやれたらいいですね。
早く治さないと。
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もちろん、繰り返し行きたい場所も。
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ねずみの尻尾
ややあって、ワイヤレスのマウスをもらいました。
会社のPCもそうなのですが、僕の中ではマウスにはコードが付いているのが当たり前だったので、コードがないのはなかなか新鮮です。
近頃のワイヤレス化は本当にすごいですね。
ゲームのコントローラのときも衝撃でしたが、Bluetoothを使ったキーボード(今使ってます)や、イヤホン、はたまた携帯そのものの充電なんてのも出ています。イヤホンなんかは本当に小さくて失くしてしまいそうなくらいですが、運動しながら聞く人なんかはコードがないのは煩わしくなくていいですよね。
携帯充電なんかはもうほんとにSFの世界で、想像を形にするスピードがえげつない・・・。
新しいのがどんどん出てきて昔の物が急になくなってしまうのも少し寂しさはありますが、良い(おもしろい)時代に生きてるなって、そう思います。
どんだけあるかわかりませんが、この先で生きてるうちにどんなのが出てくるのかとても楽しみです。
全部を使いこなせるなんて思ってませんが、おもしろそうなことはどんどんやっていきたい。
そんな中でこれから無くなっていく物たちのこともなるべく気にかけて、新旧併せて時代を広く生きていけたらいいと思います。
見えないものが多くなったら、なにも見えなくなるのでしょうか。
その余った分で他のものが見えるなら、またおもしろいとこに目が行きそう。
目が黒いうちに、いろんな光、取り入れられたら。
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ナニガミエルカ?
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固いあるかり
今の家は、手洗い・洗濯・食器洗いなど、ほとんど液体石鹸を使っています。
実家では固形石鹸をずっと使ってきて、手はもちろんのこと、顔、身体、(頭は液体のシャンプーでしたが)上履き・手提げカバンなどなどいろいろなものを固形石鹸で洗ってきました。
上履き用と入浴用は流石に分けていましたが種類は同じものを使っていて、何か洗うのにはだいたいその固形石鹸で事足りるような印象。
食器洗いなんかもそうで、スポンジの穴に絡め取ってにぎにぎぶくぶくして泡だてて洗います。ある程度のお湯で洗うと、意外としっかり落ちるんですよね。
小学校のときなんかは黄色い石鹸がネットに入った状態で蛇口にぶら下がっていて、なんとなく汚そうだなって思いながら使っていました。ネットから出して流しでカーリングみたいなことしてたなぁ(掃除のときですよもちろんです)。滑るのめっちゃ楽しかった。
あのタイプの石鹸ってまだあるのだろうか・・・衛生的にちょっと心配。
あとそうだ、時間軸逆転してしまいますが、幼稚園のときに遊具の手すりと手すりの間に足(膝)が挟まって抜けなくなったことがありました。先生が水と石鹸を持ってきて滑りを良くしてくれて、それで抜けたっていうのもありましたね。懐かしい・・・。俺こんなとこで死にたくないって、初めて死を覚悟したのでした。今となっては本当に微笑ましい。にこにこ。
平常時も非常時も関係なしに毎日使うものだから、なにかと記憶に絡まりやすいのかもしれません。
種類もたくさんあるから、いろいろ試してみたりして。
これからのシーズン、またお世話になります。
手洗いうがい、欠かさずに。
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真っ赤なあいつ。
中は綺麗な白色也。
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おもい、おもい
台風19号が去りました。
被災された方は、私には想像もつかないほど広い範囲に、想像もつかないほど多くおられることと思います。
私自身はたまたま軽微な被害で済んでいるだけで、そんな人間が多くを語る資格はないかもしれませんが、少し思ったことがあったのでここに書きなぐらせていただきます。
これはあくまで、被災したとも言えないような、いわば部外者の一個人の意見です。
被災者の方をはじめ、このあとの文について違和感や憤りを覚えるような方がいらっしゃっても、どうぞ相手にせず、こんな記事は忘れていただきますようお願いいたします。
おそらくそういった方も必ずいらっしゃるかと思いますが、私は対立する気は全くありません。
それぞれの立場と意見があって、守りたいものがあるわけですから、それに自分の価値観を押し付けるようなことは私にはできません。同じように、私が思うこと、これから書くことに対してはどうか軽い気持ちで接してください。変なところ、当事者ではないからこそ書けるような甘いエゴのようなものもたくさんあります。ほんの戯言です。
では。
なにか世間的な大きな出来事があると、いろいろな立場の方から本当にたくさんの意見が出てきます。
天災・人災関係なくよく話の出る「政治家」の思い、今回のような豪雨時に話題になる「ダム」や「堤防」の役割についてと、それを支える技術者や、かつてそこにあった生活、そういった大量の情報と最終的な結果を受けて生まれる各個人の思い、そういったものがごっちゃごちゃにこんがらがって、私からするととんでもないような疑念や憶測、言いがかりや争いが起こっているのを見て、少し悲しい気持ちになりました。
例えば、ダムについて。
「政治家によって一時期不要とされてきたようなダムが今回役立って、下流の氾濫を抑えるのに一役買った」という一連の流れの話です。
私は治水のプロではないので、そのダムがどれだけ役立ったかはわかりません。ゼロではないのが、なんとなくわかる程度です。
試験湛水なのに一気にいっぱいにして大丈夫なのかとか、いろいろ思うところはありますが、そのプロが決断したことなので、私は決断だけ受け入れます。無責任ですが。
さて、そのダムを建設するにあたっては、反対派と推進派が当然いました。
その中でもそれぞれに、「政治的な理由から建設したいしたくない」、「治水的な観点から、人命を救う技術者として建設をしたい・あるいは不要」、「先代から受け継いで、生まれ育ってきた生活と景色が様変わりどころか失われてしまう中で、それを失ってまで建設することに対する葛藤或いはその余地もないほどの強い思いや、導かれたそれぞれの意見」などなど・・・。本当に数え切れないほどのさまざまな思いがあったかと思います。
そんな中で結論を出さなければならないのは、誰かにとっての酷でしかない。
誰かが骨を折って身を削って、その上で結果だけが通っていくわけです。
あとから見れば建設「した・しなかった」の結果が形になって、今回のような災害が起こったときにそれぞれがぶつかり合って互いを攻撃し合う。それをみていると、なんとも言えない気分になります(これを書いている時点で他人事であって、だいぶ都合がいいことは承知してますm(_ _)m)。
今回氾濫を防ぐのに一役かったというダムの底にも集落はありましたし、試験湛水の中沈みゆく故郷の最後の姿を見ようとしていた方もおられたかもしれません。
湛水によって下流の多くの命を救う一因となったのも事実で、そのためにとある人の故郷を失ったのも事実。建設に反対していた方が世間の反応を見て少し心が揺れているのも(たぶん)事実。
結果的にはそのダムが下流を救ういくらかの手助けをしたという結果になったことでいろいろなところで美談が展開され、よかったところと悪かったところだけが両極端に目立ってしまっているような気がします。
かたや建設に反対していた方に対しては「それ見たことか」というような意見がけっこうな数出てきていて(主に政治家に向けてですが)、いろいろな立場、思い、役割のもとで賛成と反対の意見が出ていたことが、事実として薄くなってしまっていると思います。
ダムの底に沈んだ街で生活していて、それを守るために必死で反対していた人に対して、「それ見たことか」って言えるでしょうか。少し的外れではありませんか?実際、そのような境遇で反対していた人に対して、心無い言葉を浴びせている人はあまり見かけませんし、(心が痛むので私がそういう類を見るのを避けていたのもありますが)どのような言葉をかけていいのか私にはわかりません。「反対しないほうがよかったでしょ」だと結果論の押し付けだし、「ご協力いただき本当にありがとうございました」なんて言うとなんだか嫌味っぽくなるし、何を言ってもすんなり入っていかない。今回私が感じた思いは、そういう類のものだと思います。
大きな思いや力(あるいはお金)が絡み合うような議論の中においては、その過程でそれぞれの思いと役割が必ず存在するし、結論が決まった後だからこその考えに加えて結果論も絡まってきます。
繰り返しになりますが、賛成反対だってその中で1種類じゃありません。
その1種類じゃないところを、それぞれの立場上で、「勝者」と「敗者」であるかのような立場の捉え方をしてぶつけてしまうと、おかしな方向に向かってしまうように思います。今回のように人命に直結するような場合は、特にそうではないでしょうか。
「多くの命が助かった」
その事実と、そこに絡んでいる人、絡んでいた人まで噛みしめて、それぞれが馳せる。
もしかしたら、ダムの湛水量だってほとんど誤差の範囲かもしれません。
それでも、誰かの思いのよりどころになるなら、それでいいんじゃないかなって、そう思った次第です。
被害に遭われた方、またその地域の一刻も早い復興と発展を心から願います。
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歴史の長い由緒ある温泉でした。
頼朝公は、許してくれるかな。
移転されたお宿にもみんなで行きましょう。
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週末に興る。
週末は台風に晒されそうなので、久しぶりに家でゆっくりすることになりそうです。
ひとまず、今週もおつかれさまでした。
思えば家で過ごす休みの日は意外と少なくて、いざその日になると大抵だらだらと持て余しながら過ごしてしまいます。
もちろんそれもありなのですが、せっかくの週末、ましてこれまでの生涯でかつてないほど割り切れる家での週末に、さてなにをやってみようか。
あまりこれってものは見つかりませんが、なにか創作はしたいなぁなどと考えております。
ハンドメイドでも絵画でも、このブログでもいいから、なにかしら生産したい。
外出するといろいろなものが飛び込んできますが、吸ってばかりじゃいざってときに息苦しくなってしまいます。
たまには吐いて、自分の世界を作るべし。
少し吐いたらまた吸って、そうやってゆっくり生きていくべし。
きっと迎えた翌朝は想像より少し多い疲労感を抱えて、忽然と消えた前日のモチベーションのかけらを探すのでしょう。
したらば、明日の嵐に備えてしっかり休むのが吉。
願わくば、悪くない週末に・・・。
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たまにくる、なにをしたいのかわからない夜。
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