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なんとなくの毎日を、書きたいときに。

おもい、おもい

台風19号が去りました。

被災された方は、私には想像もつかないほど広い範囲に、想像もつかないほど多くおられることと思います。

私自身はたまたま軽微な被害で済んでいるだけで、そんな人間が多くを語る資格はないかもしれませんが、少し思ったことがあったのでここに書きなぐらせていただきます。

これはあくまで、被災したとも言えないような、いわば部外者の一個人の意見です。

被災者の方をはじめ、このあとの文について違和感や憤りを覚えるような方がいらっしゃっても、どうぞ相手にせず、こんな記事は忘れていただきますようお願いいたします。

おそらくそういった方も必ずいらっしゃるかと思いますが、私は対立する気は全くありません。

それぞれの立場と意見があって、守りたいものがあるわけですから、それに自分の価値観を押し付けるようなことは私にはできません。同じように、私が思うこと、これから書くことに対してはどうか軽い気持ちで接してください。変なところ、当事者ではないからこそ書けるような甘いエゴのようなものもたくさんあります。ほんの戯言です。

では。

 

なにか世間的な大きな出来事があると、いろいろな立場の方から本当にたくさんの意見が出てきます。

天災・人災関係なくよく話の出る「政治家」の思い、今回のような豪雨時に話題になる「ダム」や「堤防」の役割についてと、それを支える技術者や、かつてそこにあった生活、そういった大量の情報と最終的な結果を受けて生まれる各個人の思い、そういったものがごっちゃごちゃにこんがらがって、私からするととんでもないような疑念や憶測、言いがかりや争いが起こっているのを見て、少し悲しい気持ちになりました。

例えば、ダムについて。

「政治家によって一時期不要とされてきたようなダムが今回役立って、下流の氾濫を抑えるのに一役買った」という一連の流れの話です。

私は治水のプロではないので、そのダムがどれだけ役立ったかはわかりません。ゼロではないのが、なんとなくわかる程度です。

試験湛水なのに一気にいっぱいにして大丈夫なのかとか、いろいろ思うところはありますが、そのプロが決断したことなので、私は決断だけ受け入れます。無責任ですが。

 

さて、そのダムを建設するにあたっては、反対派と推進派が当然いました。

その中でもそれぞれに、「政治的な理由から建設したいしたくない」、「治水的な観点から、人命を救う技術者として建設をしたい・あるいは不要」、「先代から受け継いで、生まれ育ってきた生活と景色が様変わりどころか失われてしまう中で、それを失ってまで建設することに対する葛藤或いはその余地もないほどの強い思いや、導かれたそれぞれの意見」などなど・・・。本当に数え切れないほどのさまざまな思いがあったかと思います。

そんな中で結論を出さなければならないのは、誰かにとっての酷でしかない。

誰かが骨を折って身を削って、その上で結果だけが通っていくわけです。

あとから見れば建設「した・しなかった」の結果が形になって、今回のような災害が起こったときにそれぞれがぶつかり合って互いを攻撃し合う。それをみていると、なんとも言えない気分になります(これを書いている時点で他人事であって、だいぶ都合がいいことは承知してますm(_ _)m)。

今回氾濫を防ぐのに一役かったというダムの底にも集落はありましたし、試験湛水の中沈みゆく故郷の最後の姿を見ようとしていた方もおられたかもしれません。

湛水によって下流の多くの命を救う一因となったのも事実で、そのためにとある人の故郷を失ったのも事実。建設に反対していた方が世間の反応を見て少し心が揺れているのも(たぶん)事実。

結果的にはそのダムが下流を救ういくらかの手助けをしたという結果になったことでいろいろなところで美談が展開され、よかったところと悪かったところだけが両極端に目立ってしまっているような気がします。

かたや建設に反対していた方に対しては「それ見たことか」というような意見がけっこうな数出てきていて(主に政治家に向けてですが)、いろいろな立場、思い、役割のもとで賛成と反対の意見が出ていたことが、事実として薄くなってしまっていると思います。

ダムの底に沈んだ街で生活していて、それを守るために必死で反対していた人に対して、「それ見たことか」って言えるでしょうか。少し的外れではありませんか?実際、そのような境遇で反対していた人に対して、心無い言葉を浴びせている人はあまり見かけませんし、(心が痛むので私がそういう類を見るのを避けていたのもありますが)どのような言葉をかけていいのか私にはわかりません。「反対しないほうがよかったでしょ」だと結果論の押し付けだし、「ご協力いただき本当にありがとうございました」なんて言うとなんだか嫌味っぽくなるし、何を言ってもすんなり入っていかない。今回私が感じた思いは、そういう類のものだと思います。

大きな思いや力(あるいはお金)が絡み合うような議論の中においては、その過程でそれぞれの思いと役割が必ず存在するし、結論が決まった後だからこその考えに加えて結果論も絡まってきます。

繰り返しになりますが、賛成反対だってその中で1種類じゃありません。

その1種類じゃないところを、それぞれの立場上で、「勝者」と「敗者」であるかのような立場の捉え方をしてぶつけてしまうと、おかしな方向に向かってしまうように思います。今回のように人命に直結するような場合は、特にそうではないでしょうか。

 

「多くの命が助かった」

 

その事実と、そこに絡んでいる人、絡んでいた人まで噛みしめて、それぞれが馳せる。

 

もしかしたら、ダムの湛水量だってほとんど誤差の範囲かもしれません。

 

それでも、誰かの思いのよりどころになるなら、それでいいんじゃないかなって、そう思った次第です。

 

 

 

被害に遭われた方、またその地域の一刻も早い復興と発展を心から願います。

 

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歴史の長い由緒ある温泉でした。

頼朝公は、許してくれるかな。

移転されたお宿にもみんなで行きましょう。

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